やまなしの国保
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 翌日の土曜日、前回は救急搬送されて入院した病院を受診し、入院となり、緊急内視鏡が行われた。既に止血されているが、左側結腸の憩室が出血源と推定された。 前回までの出血は右側結腸からの出血であったことを思うと、診断結果には大変なショックを受けた。いざとなれば、右半結腸切除でもと覚悟をしていたのだが、これでは外科治療はなるべく回避せざるをえないと考えたからだ。 翌々日に止血されているのだからと、無理を言って退院し、鉄剤を内服しながら、すぐに診療の場に復帰した。さすがに、楽しみにしていた石和温泉での一泊の高校時代の同級会も、福無量の蔵開きの長野旅行も欠席にした。 何事もなく過ぎていった大型連休の前に、東京で104歳の私の叔母と住む従妹から小包が届いた。『銀座の蜂蜜』と、名付けられた3瓶の高価そうな蜂蜜の詰め合わせだった。同封の手紙には結腸憩室からの出血には蜂蜜が良いはずだからと、東京の銀座でとれた蜂蜜をおくるとのことだった。 昔、長田の家では蜜蜂を飼っていて、採れた蜂蜜は薬として使っていたのだ。「おじいちゃんは、お酒や下部温泉のお湯に溶かして、いつも飲んでいた」「だから、孫のおまえにも良いから」が医師でもある従妹と、104歳の叔母の言い分だった。 前にも書いたが、明治初期に生まれた祖父は、幼児期から東京で学び、英語に堪能で、ワーズワースを読み、英国のジェントルマン的生活を理想とする人だった。世界大戦の終結まで、現にそのように生活していた。養蜂と狩猟は経済的にもままならなくなった、戦後の生活の中で残された田園生活の数少ない残照の様なものだった。 私の小学校時代は、やはり東京で学んだ祖母に育てられ、ジェントルマンの名残を僅かにとどめる祖父との生活だった。 長田家の広い敷地の奥の‘隠居‘の廊下の前に数個の蜜蜂の古い巣箱が置かれていた。 新しい女王蜂が多くの働き蜂を従えて木の上に群れている、初夏の分蜂。蜂巣に蜜が溢れると、’隠居’の奥にある浴室に続く階段の上に置かれた、一抱えもあるドラム缶のような遠心式の搾蜜器で蜜を採取する。蜂巣を閉鎖していた蜜蝋が削り取られ、皿に蜜と共に盛られている。祖母は時々、この甘い蝋を、こっそり分けてくれる。 秋が始まると蜜蜂は大敵クダバチ=オオスズメバチに襲われる。大人の親指ほどもある巨大なハチが蜜蜂を殺すために襲ってくるのだ。なん十匹も。巣箱を覆うような大量のクダバチと、蜜蜂たちは全く展望のない戦いを繰り広げる。巨大なクダバチの顎は容易に蜜蜂たちを両断する。勝ち目のない戦いをするのは蜜蜂たちが西洋ミツバチで、クダバチの脅威を知らないからだと祖父は教えてくれた。日本古来の蜂なら天敵クダバチには巣の奥深くに逃げ込んで、全滅を回避するすべを知っているのだと。 そこで、小学生の私と70歳を超えた祖父が助けに向かうのである。細長い羽子板のような板を武器に襲来するクダバチを叩き落とすのである。怖くはなかった。殺戮に夢中のクダバチたちは老人と子供には興味を示さなかった。実際一度も刺されたことはなかった。数十分も続かなかったか、戦いが止むと夥しい蜜蜂たちの屍と、それでも20を超えるクダバチの死体が散乱している。 秋の間に、個体数を回復した蜂たちが用意されたザラメと共に越冬するまで多い時は数回の襲来があった。 亡くなる前、何年ほどまで祖父との共同作業は続いただろう。104歳の叔母と従妹からのプレゼントは、70年前の思い出の世界に私を引き戻してくれたようだった。 以来、妻は朝食に必ず蜂蜜を出してくれる。白いヨーグルトに専用のスプーンで蜂蜜を落とし、ゆっくりと混ぜる。蜜のかたまりから細い帯が広がり、やがて全体が淡黄色に変わってゆく。ラジオからアルビノーニのアダージョが流れている。近所の悪友から頭に石を投げられ血だらけになった時、蜂蜜を塗って、すぐに止血してくれたのは祖母だった。なぜかあの時の蜜は甘かったと思い出している。 甘美な蜜入りヨーグルトを口に運び、「そうか、出血には、やはり蜂蜜か」などと思っている。 幸い、出血の再発はまだない。26

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