やまなしの国保
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してきた。 しかし、3年前訪問診療に特化した『長田在宅クリニック』の開業以来、旅行への参加は中止せざるを得なかったことが、今度のS先生の特別のご配慮だった。 北西部スペインという場所に、なぜキリスト教の3大聖地があるのかとの疑問はもちろんだが、なぜキリスト教徒たちは千年を超えて、巡礼としてかの地を訪れているのか。一カ月の旅の途中では不慮の事故や、生命を失うような出来事にあうことも稀ではなかったはずなのだから。そして、巡礼が終わった後は故郷に帰らなくてはならなかったのだから。 そのような、年間数十万人もの参詣者が危険を承知で集まる聖地に、一度身を置いてみたいと思ったのだ。 飛行機はまず、マドリッドに飛び、プラダ美術館でゴヤの『わが子を喰うサトゥルヌス』に会い、その後、バスで一路北上。サラマンカを経て、次の日ポルトガルに入り、世界3位の歴史を持つコインブラ大学で医学部の学生と交流。一泊後、ポルトに至り大西洋にそそぐ“ドォロ河″の景観とポートワインに酔う。ポルト大学では「マキシミニアノ・レモス医学史博物館」を見学。インドからの留学生を含む医学生代表と記念撮影。その後、陸路サンティアゴ・デ・コンポステーラに到着した。 まず大聖堂を遠く望む「歓喜の丘」から始める。苦難の30日余を過ごした巡礼者たちが、「もうあと少し」と感激した場所なのだそうだ。その後の市内に至る道々にはホタテ貝とヒョウタンをリュックに付けた巡礼者たちのほこりにまみれた日焼けした姿を多く見かける。 聖フランシスコ修道院を過ぎると、僧衣の人たちとも多くすれ違う。はるかケルトに由来するというバグパイプの音の響く中、高さ60メートルを超える大聖堂の前のオブラドイロ広場に至った。周囲は壮大なラホイ宮殿。銀細工様式の旧王立病院がとり囲んで、一部は現在、我々が夕食をいただいた古式のホテルとなっている。 行列をつくる入場者をスルーして入った大聖堂の内は日曜ミサのためか、さらに大勢の人で混雑している。 祭壇の奥の、聖ヤコブの遺骨を納めた銀製の棺を拝し、聖ヤコブの座像の背後に回り、両腕を聖人の頸 デ・コンポステーラへの旅に回し、思い切り抱きつく。多くの信者と、我々のような不信者・異教徒たちの背後からの抱擁に耐えた座像の左肩は黄銅色に変色している。 この日のミサに集まった何百人もの信者たちは祈り、どよめき、その頭上で大きな香炉(ボタフメイロ)が振られる。祭壇から離れた隅に集まった信仰を持たない我々は、特別な時だけ行われるというこの儀式に出会えたのは運がよかったのだと思っている。 夕食後、ほとんど人がいなくなった静かなオブラドイロ広場に出て、ライトアップされた大聖堂を仰ぎ見る。思わず、首を垂れてしまうほどの荘厳さを感じてしまう。これが歴史なのであろう。信仰を持たない者にとってはここが限度なのであろう。 南フランスのピレネーに近いルルドに行った時、夜間の広場をうずめる何百人もの人たちの「サンタマリーア」の大合唱を聞いた。 ヨーロッパや全世界から家族、あるいはボランティアの医療者に支えられ集まって来た、疾病の治癒を祈願する人たちの声だった。しかしルルドで、あるいはその前後の旅の途中で亡くなることも少なからずあるとのことだった。 サンティアゴ・デ・コンポステーラでもルルドでも、聖地への巡礼や旅行で命をなくすことは問題ではないのかもしれない。もしそのような事態になったとしても、それは神と共に、あるいは聖ヨハネと共に一体になったということで、死とはその過程に起こったこと。本当の幸せを得るためには死は関係ない、むしろ永遠の命を得るための一つの過程でしかないのだと、この敬虔な信者たちは思っているのではないだろうか。それが信仰に基づく覚悟の死なのだと、黒御影石で造られた、壮大な大聖堂を前にして思った。 40年の在宅医療のなか、「もう十分生きましたから、ここで最期まで過ごさせてください」と、多くの年寄りたちが自宅や老人ホームで亡くなっていった。穏やかに、静かに。ある人は最期の少し前まで微笑みを浮かべていた。私もそのように逝きたいと思っている。 殉教の旅のような覚悟さえうかがえるサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼。生への執着をほとんど捨て去ったような、在宅で最期を迎えた多くの人たち。日本人でよかったと、今は思っている。26

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