やまなしの国保 2018年1月号
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 私たちが、あれはダメ、これはヨシ、とものごとに意味づけをする基準は何でしょう。ものごとのすべての真意をわかって判断をしているとはどうも思えません。ではその基準は?というと、これが厄介な各自の「自己都合」です。 先日、とある行きつけの小さな焼きとり屋に入ったときのこと。その日の大阪は傘が役に立たないほどの大雨だったので、お客は私ひとり。カウンター越しの大将が不機嫌そうに「この雨が続いたら店は閉店や!」とご立腹。「私が大食い大会に出られるような人だったら50人前くらい注文するのにね」と茶化しているところへ勢いよく男性のお客様が「大将、この雨は女神様やな!ありがたい!」と満面の笑みでカウンター仲間に加わりました。 「なにが女神や。こっちにしたら貧乏神やで」と大将。女神だの貧乏神だの色んな神様になって恵みの雨も大変だなと思いつつ、その男性、きいてみるとどうやらタクシーの運転手さん。土砂降りのお蔭であっと言う間に一日の売り上げを達成できたので早々に一杯やりに来た、というわけです。 私は思わず「雨奇晴好ってことですねぇ・・」とボソっとつぶやいてしまいました。 =うきせいこう=雨でも晴れでもそれぞれが素敵で趣があるから、ありのままを見て、とらわれない心で生きましょうね、都合が変われば意味づけも変わる・・そんな生き方では疲れてしまいますよ、という禅のことばです。 さて、この「ありのままを見る」これを仏教では如実知見といいますが、これがなかなかできないのが私たちです。なぜなら私たちは暮らしの中で、目の前にあるモノを見ているのではなく、見ようと思っているモノだけしか見えない、そして当たり前と思っているモノは見えない生き物だからです。 こんな事がありました。沖縄で門下生の合宿を行い、バスで移動をしているとき、ずらりと立ち並ぶ街路樹を見て皆が「このヤシの木が南国ムードを盛り上げてくれますね!」と興奮気味に現地スタッフへ言うと「え?あ!本当ですね。ヤシだらけだ!気付いていませんでしたよ」と言ったので一同はびっくりです。本土から訪ねた我々には南国ならではのモノが街中に浮き彫りのように見えましたが、日常の中に溶け込んでいる彼等には、そのほとんどが目に映っていなかったのです。 私も「街中にたこ焼き屋があるなんて驚き!」と田舎から大阪に来た友人の感想に対して「え?どこにある?」と返事したことがあります。やはり大阪人にはたこ焼き屋が見えないほど日常的なのですね。 この<当たり前になっていることは見えなくなる>という現象は、ヤシの木やたこ焼き屋が見えない程度ならどうでもいい話しになりますが、厄介なのは感謝の目隠しになるからです。 結婚初日は互いのすべてに感謝だった夫婦。「当たり前」になる前は、相手が施してくれている内容がちゃんと見えていたはずなのにいつ頃から見えなくなりましたか。5年くらい?もっと早くて3ヶ月くらいでしたか?(笑) 出会った縁はいつか必ず離れるもの。離れると、相手が与えてくれていた沢山のささやかな施しが生活の中から抜け落ちることで痛いほど知らされるのです。机の上に当たり前のようにでてくる一杯のお茶も尊い施しを受けていることを忘れずに歩みたいものですね。 「それぐらいのことはわかっている」とつい思ってしまいますが、問い直す機会にしていただければ喜びです。頻度たかくそれが起こるからといって感謝しない理由にはならないのです。 文頭に登場した焼きとり屋の大将ですが、別の大雨の日、彼は大喜びをしていました。理由は絶対出場したくないグラウンドボール※大会が雨のお蔭さまで中止になったからだとか。お店はその日も閑古鳥が鳴いていたのにいい加減なものですね。│お│説│法│コ│ー│ナ│ー│̶身体と心の健康̶※グラウンドボールとは…ゲートボールに似たゲームで若者向けのスポーツ16

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