やまなしの国保 10月号
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 精神科のクリニックを受診し、別の認知症の薬と睡眠薬の処方を受けた。症状が悪くなったりはしなかったが、効果もなかった。 ようやくデイサービスを勧められて、迷惑をかけてはと思ったが、2か所目で、何とか施設に留まっていてくれるようになった。しかし、家に帰ってくると、すぐに外出してしまうのだった。 平成28年11月頃までこの状態が続いたが、徐々におとなしくなっていった。何か変なので、別の内科の病院を受診すると、右肺に“肺炎と胸水”が認められ、体が弱ったのはそのためだったのかもしれなかった。 詳しく、CT検査などしたいがジッとしていないので無理だと言われた。肺炎と胸水の原因は不明と言われた。 数回の外来受診をしたが、時に発熱することはあるが、特別苦しむ様子もないし、何よりAさんを連れていくことも、診察を待っているのはもっと大変だったので、自宅への往診をしてくれる医師にたのむことにした。 平成29年6月長田在宅クリニックの初めての往診があった。平成22年に“物盗られ妄想”が始まってから7年目だった。 初診往診の時、Aさんは床の間のある、広い部屋の真ん中に布団を敷き、その布団から大きくはみ出して、半身を畳の上に、全身を固く硬縮させる様に丸まって、横向きに寝ていた。無言だった。 「最近ようやく寝たきりになり、少し楽になりました」と、お嫁さんが言った。 38度の発熱があるが、やはり在宅で治療していくことにして、同行していた訪問看護師に在宅用のベッド等を用意してもらうことになった。褥瘡予防のマットも必要と思われた。 このまま、この家で最期まで過ごしたいが、家族の希望だった。それはかねてからのAさん本人の希望でもあった。 「最後はデイを利用したが、この7年間、よく在宅で介護してきましたね」の質問に、お嫁さんは「絶望的になることはしょっちゅうで、本当につらい何年もの間だった」と。「ご主人となさったから」には、「夫は少しも頼りにならなかった」と、ずいぶん厳しいことをはっきりと、夫の前で言う。在宅で介護するということ食事は?の問いに、「毒ではないかなんて言うのですが、私がやると食べるんです」と、お嫁さん。事実それから亡くなるまで、様々に工夫した食事が、ゆっくりと口元にスプーンなどを使い供されているのだった。「私の言うことは聞いてくれるんです」と、もう何年も相互の信頼に基づいた介助をなさっているのだった。 そんな状態が続き、徐々に食事量も減って、元気が無くなってきたころの訪問診療の時だった。 「熱が出るのでデイには行けないから、好きな音楽を聴いていたんです」と、横浜から来た娘さんとお嫁さんが言う。Aさんはハーモニカが上手で、歌うのが好きで、タンゴを聴き、踊ったのだと信じられないことを話している。 一緒に行った訪問看護師がユー・チューブから、Aさんが好きだった「埴生の宿」をかけてくれた。一瞬Aさんの唇が動き、何か発語があったようだった。歌ってくれたんだとみんなが思った。 そんなことがあって、2日後にAさんは、お嫁さんがみている前で静かに息を引き取った。満92歳だった。私たちが訪問を開始し、一か月後のことだった。 「頼りにならない」と言われ、少し恥ずかしそうにしていた長男と、長男の嫁が二人で、「絶望的になることはしょっちゅうで、本当につらい何年もの間」の在宅療養であり、介護をやりきったのだった。 40年近くの私の往診の経験の中でも、とりわけ厳しい条件の中での介護だったと思われた。少なくとも駐在さんが病院受診を勧めたあたりに、だれか行政の保健師か在宅療養にも通じた専門職がかかわっていたら、これほどつらいことにはならなかったのではと思うのは、間違いではないだろう。 進歩してきた認知症の患者とその家族への、医療と多職種による支援システムがあると思われる今現在で、このような経験をしてきたAさんと長男夫婦があったことに大きな衝撃を受けたことも確かだった。 「もうちょっと早く、お会いできていれば」と、どなたかが言っていたことを思い出す。もうちょっと早くお会いできれば、Aさんと一緒に歌ったり、素晴らしい長男夫婦ともっと落ち着いて、親しく話せたのではなどと思っている。21

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